20151006 晴れ

世の中はノーベル賞の明るい話題がニュースを賑わせている。

医学分野の知名度がかなり高く、ニュースでは物理学賞は内容が難しく研究者の説明をつけても、ほとんど理解できないとニュースキャスターが言っていた。我が家の主人も同じ事をいう、主人はあまり興味がない分野だ。量子物理学をだいたい理解していれば、内容はそこまでさほど困難ではないのだが、もっと困難にしているのは基礎科学や人類が宇宙を知る為に、この長い難解な謎解きに果敢に挑んだ歴史が医学ほど個人の日常に命に影響がない事に対しても、理解を困難にし増やしているのだろう。アインシュタインも、あまりに理解できなくて有名になった偉人だが、分野が違うとほとんど理解は難しい事が多い。大陽を見て日光を感じても、日光とはいったいなんだろう、なんでできているのだろう?なんて無意識に考えるのは、子供達ぐらいで大人になるとかなり少数派である。無邪気な感性は光をだす大陽をあれは、なんだろう?と不思議がるが大人は不思議がらない。だいたいニュートリノは目に見えない。
大人は、ある意味では理解したと安易に思い込むほどに、思考停止に陥りやすいものだ。

物理は、だからいつも敷居が高い理解しずらい専門用語が多く読みづらいのと新しい仮説と実験検証で立証された時は常識がまるで一変してしまうので、人気がないらしい。
人間は今までの常識が通用しなくなり、改めて勉強しなおす大変さを実は嫌がる生き物だ。

全てが無駄に終わるのだ。その残酷さを持つのが物理の魅力でもある。

私の好きな物理は、そうした世界の残酷さを持ちながら、きらきら輝いている。

皆がある日新しい法則が支配し古い法則が壊滅される事を目指している。

そこがドラマチックでエキサイティングなのだ。

もっと基礎科学が親しみを持って迎えられる時代が来たらいいなと思う。

私は仕事では全くヒッグス粒子ニュートリノも自然科学も天文も、関係がない分野だが、ある日突然欲を捨てたいと思い、ひたすら家族の介護奉仕をした厳しい毎日に、かすかに残った我欲は、自然に対する美意識だった。こんなに欲を削ぎ落としても、月は素晴らしく美しく見えて、自身の人生観すら一変してしまった。人はなぜにもこんなに生きたいと思うのだろうと死とはなんだろう?老いとはなんだろう?人とはいったいなんだろう?そうした疑問が私を支配していた時期だった。最後に残った我欲には生きる力になる美しさが私を励まし、日々感動を与えた。

今日も夜道を散歩するだびに、醜悪な気持ちを持ちながら恨んだ事を思い出すたびに、神は私を私に刃をむけずに、私が恨んだ相手に復讐をはたして、そのあまりにも痛い残酷さに神の力と恐怖を初めて知った。私はその時に怨みをもった自分を心から恥じた。相手の痛みは自分の痛みと苦しみと涙になった。。

例え法律上私が皆目一つも悪くなくても、理不尽に被害にあい、裏切られた時に、解決を努力し無駄に終わる時にでも怨みを残すのはやめようと思った。神がひたすら怖かったからである。
とても科学的に…怖かったからである。
それで出来るなら忘却を望んだ。
それで星を見るようになった。
それで…命の宇宙の始まりの謎に惹かれた。
この時から
死は恐怖ではなくなった。数学的には、私は永遠に死なないとすら知った。
物理的には、私は小さな存在であり、無知な者に成り果てた、それまで自分に対して過信があったが、全てがあっという間に完全に崩壊した。
知れば知るほどに、残酷なぐらいに打ちのめされた。物理は特殊な学問だと思う。だけど理解すると、感動は他の分野と違いすぎるものすごく大きな感動を感じる。

そうした分野だから、私は生きる事に初めて意識して執着した。
ただひたすら知りたかった。
私の生命は知をもつ美の感動が私を生かしていた事実を知った瞬間だった。
感動だけが、私を生きるほうへ動かした。
そして、生き方を変えるしかすべがなかった。
より本質に近い道を選ぶ事にした。今でもこれで良かったと確信している。ある意味では、それがなかったら私は死んでいたのかもしれないとすら今は思う。。いや、生きながら死んでいたのだ。長い間。
幸せな豊かな日々に今はとても感謝している。
痛い思いはするべきなのかもしれない。そうでなければ、私はずっと過去に囚われて生きていただろう。そうならないように勇気をもつように、私に与えられた学びは物理だった。ある意味では救いとしか思えないぐらいに、その不思議な廻り合わせにとても感謝している。
ある日突然常識が一変する時に、私はまた新しい世界を知る。その素晴らしさは何にも変えがたい大切な事になる。