20150806 晴れ
デサインという存在
主人にデサインを見て理解出来ないと言われた時、説明をするのだが、やはり解らないと言われる。幾何で確かにわかりずらいのか???
オリンピックなどで、騒いでいるのをニュースで知ると、解らない人には説明しても、解らないんだなぁ。。と
コピーだパクリだと言われても、デサインを考えた人には、全く全然違うものだから、ものすごく困るだろうな。。
絵画でも、なんか全然解らないと主人に言われたが、説明してもやはり解らないなりに感心して、聴いていた。芸術は自由な発想から始まるのでと 言っても、人間にしか解らない美の感性で表現するが、そこにアーティストならではの新しい挑戦が必ずある。
つい最近は、何が脳で美を理解しずらくしているのだろうか?と悩んだりする。
デサインは簡単に解らないと思い込みで思考停止しているのかもしれない。
そんなことはないのだけど…。
要するに、漠然とある対象に、そこから何を見つけ何を理解するのかを探してあっ!と見つけ理解する能力があるかどうかなのだ。
説明すると話は長くなる。それに芸術は見るものには、見つけられなくても観察者に許される自由や想像にも寛容だ。
だからある意味では、いいかげんでも許されている。
嘘の話を創り素晴らしいと言われる映画のように。
馬鹿馬鹿しいと言われる事に、意外な新しい発見があるように。
パッと見て解るかどうかを問題にしてはいないのを理解さえしてくれたら、嬉しい。