ムダイ 5

それからは、新しい環境になる。言われたまま、寮生活をする。言われたまま仕事を得た。苛酷なスケジュールだった、苛酷な毎日が当たり前になっていった。年齢が若いと疲労感はなかった。
繊維会社は苦痛以外のなにものでもなかった。
寮生活でも一番不便だったのは消灯時間である。夜10時になると寮では絵が描けない。仕方なく廊下に出て描くしかなかった。働いて得た金で自主的に通信制の絵画の勉強をした。結局はお金が足りず全部スクールの講習は受けれなかったが、よく勉強した。デッサンは大好きでイラストかデッサンか微妙なものだったが、しつこいほど描いていた。見本の人体デッサンは素晴らしい鉛筆画で、全然レベルは違うのだが それでもへこまずに、無我夢中で描いた。
そうした高校時代だった。学力も身長と比例してのびた。身長がどんどん伸びるとスポーツも、上手くなっていったが、相変わらず夢中なのは絵だった。ひたすら虚勢を張り生きる毎日となっていった。学校ではなぜか、優等生の扱いになっていった。アウトローで生きるこれまでの自分が学校ではなぜか違う流れを作り出していった。いみじくも不良にすらなれなかった。といったほうが本当だと思う。そうした才能はからきしなかった。そうした友達もいたが、なんだかくだらないゲームにでも似た、退廃感が支配していた。退屈だった。友達は、バイクに乗り走り無線で警察を出し抜く事に夢中だった。計画を丹念にねって、町中走り大人達を振り回す遊びに悪びれていた。それを見ながら、親にかまって欲しいような幼さがあった。その友達の親は警察官でなんか深い部分で淋しいのでは???と直感した。それで一緒に遊ばなくなっていった。まあ、私は絵をやり抜くエネルギーだけは、あるような感じでいた。根底の力は色々な世の中の不条理さや、偏見と差別を反骨精神が支えて立っていたような気がする。簡単に言うと、社会への怨みである。とにかく差別された、近隣の大人達や学生、大半が家が貧しいという家庭が子供達を寮に入れる事が多く、初めて社会的差別を知った。そんな学生生活で、弁論大会の合宿で優秀な高校との合宿があり、交流をもつようになる。 同じ学生でも、この時に学力の差を、理解し自分が底辺で井の中の蛙である事を知る。それが焦りになり、また危機感から勉強を必死にするようになっていった。その頃は、一番記憶がはっきりしているのは、このままでは絶望的な人生しかおくれないという焦りだった。この程度の高卒では社会で相手にされないと、進学先を一人で勝手に決めてしまい、母を困らせた。母には高卒で十分だったのかは知らないが、私には、地獄から逃れる為の戦いにも似ていた。 母は妥協案が好きな人だった。女の子は学歴なんていらないと、当時は考えていたのだろう。多分沢山の我慢を受け入れて耐えてきた女性だったのかもしれないが、私はそうした生き方を不器用なあまり、できなかった。幼い頃から、まるで校長先生はじめ、皆がいった言葉は作家か絵描きしかなかった。それしか取り柄がなかった。勉強ができない軽蔑を込めて担任もそういった。
でも、それでしか生きれないという事は、他を考える必要性がなかったので、良かったかもしれない。あらゆる反対を無視して障害を乗り越えて、絵を描く為に絵を勉強する為に京都へ行く事が目標となるのである。
その当時は教会には、離れてしまった自分がいた。私の中では教会にいる人達は、なんだか違う考え方が支配していた。
その違和感から、足を遠退く事になっていく。
全て神の信仰だけで理解し生きていけない自分がいた。愚か者で依然として居場所はどこにもなかった。
身体が弱く小さい頃には 医師に、自分は体力的にもかなり人より不利である事に自覚をもつよう言われた。長くは生きれない自分を本能的に理解していたので、人生が短いという焦りがあった。
絶対に生きぬく為には生きる目標が必要になっていた。死がとても身近で その為に、余計に焦りがあった。
その当時は多分死ぬのは40歳ぐらいだろうと勝手に想定しはじめていた。
恋心は全然もてなかった、普通恋愛をする時期だがいつも、絶対の神の存在が私にありすぎて、男性には失望し恋愛にも夢中になれず、優等生と言われても本音を出せない、居場所がない自分がいつもいた。
どこへ言っても、共感したような人に巡り会えないまま、苛々し時は流れた。

唯一支えになったのは偉人達の生きざまだけだった。レオナルドが天才だからじゃなく 感覚的に、とても自分には解りやすかったのだ。だいたいが、ほとんど独学で学んでいた。
そうした日常の差別から、人種差別の歴史へと興味を抱いていく。多分黒人の差別は自分の不幸感の体験と、つながっていったのだろう。負をもつ者は負に優しくなるという安易な情感による理解だった。
とりわけ弱者と言われるもの達が、立ち上がる勇気に感動をした。
その反面、痛ましい歴史は殺戮の繰り返しで闘争につぐ闘争の歴史でもあった。読書はそこに方向性が生まれた。
他には、社会的な経済の本や政治に興味をもっていく、時代はバブルの時代に入り、世の中はどんどん金があるもの達が支配して狂気に似た社会が生まれていた。
その狂気が自分が一番嫌いな金の力が若い自分の青春と暮らしに味方するとはその当時は考えていなかった。

卑屈な性格で陰気な人格だったが、ふと周囲を見渡すと進学先があったのは寮で私だけだった。

校長先生に呼ばれて、誉められたが…。。
母も得意になって我が子を喜んでいたが…。。

そうしたこと全てに怒りを覚えたのが自分だった。だだひたすら能力が上の人ばかりで惨めさがあり絵を描くのも下手で、まだ学力もなく、…
全然自分に納得が出来ないまま、進学するのである。葛藤と過酷さと惨めさと、差別と闇が私の中では青春だった。

こうして改めて書いていくと、悲惨な青春のようだが、私には結構愉しかった。自立できる暮らしは、自信をつけ、人生を選べる自由を得た初めての体験だった。

人と周囲と違う選択を選ぶ事に対しては、なんの抵抗もなかった。
担任の先生も、優しい人が、とても多かった。
多分家庭の愛情に飢えた子供達を、一人前にする為には沢山の努力をしてくれたと感謝している。とりわけ出来損ないの自分は、昔から異常なぐらい干渉される事を、嫌っていた。それが成立する暮らしで、一度もホームシックにならなかった。
自宅はとにかく干渉される事が多すぎて、辛かったが それよりは幾分かは良い生活だった。
就職した事が金銭的余裕をもち、貯蓄は進学する為の自己投資になった。
その当時は京都の桜を見たかった。鮮やかで優美で石川と違う哀しみのない、艶やかな花弁の色を感性が求めてやまなかった。そこには、美しい自然の色彩があった。

変な話かもしれないが、花魁に魅了させられる男性にも似た、恋心があった。惹かれていく本質は多分幼い頃の初めて感動を与えた、祖母の一枚の帯が私を京都に導く事になる。装う為の衣裳だったが一枚の名画に見えたものだ。桜に対する思い入れもあった。
普通に進学して普通に就職した人からみたら、かなり遠回りした人生にみえるだろうが、そうした失敗を重ねてしか目標にたどり着かないものだとも今は思う。

夢がかなった時は本当に嬉しかった。
母もその頃は、私の夢に協力してくれる方向へ動いてくれた。

人生とは不思議なもので、京都へ行き新しい学生生活を始めたのである。
母の苦労を心配を考えることもなく、ひたすら自分の生きたいように生きる毎日だった。