20140925雨

久しぶりの雨だった。
自転車を走らせながら、少し風が冷たくなってきたと肌で感じる秋の日

常日頃漠然とうまく言葉にできないことがあるたびに、なんとなく出た言葉の端々に自分と似たような考え方の人を見つける。もしかしたら、それは一部であって全部ではないかもしれないが共通のimageが初めにあって、これなら同じ考え方の人だという納得できる一瞬が欲しいのかもしれない。 私にとって、それが本ではいつもある。
ある日使っているグラスが奇妙に不自然な感じがして思わず、割ってしまうように違和感が嫌悪感に変わりはては、壊す。
それと矛盾して、自らの存在がそうでありながら目先の見える現象に惑わされて、本質的な部分において間違った考え方を自分本位に選んで勝手な解釈や論理を打ち立てて自己満足を優先してしまい、完全に目標からそれた行動を選んでいる事すら、気がつかない。
あらゆる自然な事を受け入れられず歪んだ考え方で見て、愚かさだけを増やすのを理解するたびに、本当に愚かだと思うのだが、そういった時に今は気がついて良かったと、なるべく思うようにしている。

そう考え方を変えることができ気づけたのは、他ならぬ今までの苦しみと読書のお陰かもしれない。
突然、刃を向けられたような衝撃的な言葉には、自分の悟りがなく不完全でありとんでもない欠点が露骨にリアルに見えてくる。それをなんとか受け入れて、コアな部分に目標を定め努力する。
そんな時に
空を見てばかりいる
そういった自分だから
気づけたのかも
しれないと思う。
本質はかなり
いつも深いところにある
それを体感しなくては、なんの為に生きているか皆目解らないと思う。

そこで、内容は難解か簡単かはどうでもよく
自分の理解しやすい偉人の考え方を選んで読もうと、つい最近は考え方を
改めた。
この理解しやすいという意味は、今自分が求めている言葉という意味で、 数値化されたものを多少は知りながら文章に表現になってないという意味です。

今はある言葉を体感し理解する事に全力を尽くしたい。
そして、実戦的に理解し
たら自分はきっとその深い意味を悟れるかもしれない。

虚しく、言葉を知を知っても心寂しいばかり。
それでも、知識は大切で自らを救い時に悦びを与えるが、本当は生きる喜びとは、それを知りつつ実行でき理解でき悟れることかもしれない。

理解できるからこそ
対話は始まる。
理解できないからこそ
議論が始まるように。

すべては気づきからだ。

自分の中にある事を一度疑ってみてある事に気づくと初めて新しいチャンスは増える。