20131110雨

引き続きスピノザを読んでいる。
実際に現実では、少々精神の本を読みすすめ内容の間違いと正しいと言われる解釈の海に潜りすぎた為だろうか?スピノザを理解する力不足を実感する。感性では理解できる繋がるimageの世界と理性知性で、まだまだ理解できずらい部分があり自分に困惑する毎日である。私はとても懐疑的な人間で専門家がそう言ってもすぐにそうだとは、思えない性質がある。なぜか?それは自分がやってみるともしかして全然違うのではないか?と考えてしまうし実際にそういった事は沢山あるからだ。
小さな頃にあった思い出が自分に何かを語りかけるように、スピノザの本は明確に本質的な部分の真実を語りかけてくる。
幼少の喜びとは、無垢でありながら真実でしかないが、大人はそこに違う屁理屈を求めて裁きたい衝動を必ずや対象に対して漠然と理解できないまま漠然と、もつのだ。それはもしかしたら、気がつきたくないという動揺からくる本能的な怒りかもしれない。気がつきはじめると人は今までの暮らしができなくなる。
今までで、聖書以上に苦しい本に初めて出逢った。いや、最高の喜びにもなりえる可能性がそこにある。
だが、普通の日常を暮らす人は、あんまり知りたがらないかもしれない。

そして、私にはとてもショックの大きい本です。
スピノザは突然私に刃物をむけて、人としての内容の愚かさと幼稚さを告発し、神という思想概念存在意義image全てに違うといい、未熟者であると回答をつきつけるのである。そのくせ漠然とimageではスピノザのいう神はとても自然で直感的にものすごく正しいと思える事が多い。この二つの自分がいて、多分やはりimage思考での自分はスピノザの考え方にくみしてしまう。
なぜか?要するに、冷静に観察するほうの私の知性は直感的にスピノザを選ぶのだ。

直感はあてならないが…
とても気に入ったスピノザの言葉がそこにある。

神の本質、いいかえればその本性は、いつもなおざりにされてきた。
これが一番の謎であり問題点なのだ。
そして、私が想像する神の本性とは、聖書や仏教などの本では、まだとてもいつも遠い悲しい感じがするのである。