20130123曇り空

ああ…今夜も朧月夜
と、いう訳で。

ファイマンを一冊読書完了。
「科学は不確かだ」

後、一旦混乱するので心理学勉強を完全に終了

ユングとファイマンを同時に読むと、ややこしい(W)
物理本をメインにサブを無しにする事に。
この本はファイマン井戸端会議っぽい。
ノリで適当に?講義すると、こんな風になるであろう的本。
簡単に言えば「こう考えると面白いよ」みたいな内容が沢山盛り込まれている一冊。
科学という先入観を壊して一般的な読者に優しく科学を説明したかったという挑戦的な内容。

私からすると一回一般的な科学という先入観文系的理解概念をバラバラにして考えて、新しい考えで視点で科学をもう一回理解してみてほしい。という狙いがあり、大変楽しかったです。

一時期、つまり私はなんのオリジナリティな発想を生まれてこのかた、もちえているか、果ては真に理解しているか?という漠然とした恐怖感があった時期が私に襲い掛かる心境の事がありました。その普遍的な問いに、誠実に答えてくれた正直な一冊でもあります。
そういった意味では「何も発見してないし理解してません」がそれを堂々と言える素晴らしさです、
小さな頃に母に仏が恐い天国はない、空の上には宇宙しかない、あるなら本当の仏を
天国を見せろよ!と親に大人に喧嘩をしかけた時期がありました。それぐらい現実的だったのですが、想像力が強く情緒も不安定だったので、最終的には「見えない神」を信じる事にしたのは「奇跡」という魅力的な神秘があったからに他ありません。 子供というものは、日常の大人から与えられた強制的常識と道徳から、逃れられません。それと同時に私は芸術家特有の幻想世界や想像世界からも逃げられないのです。私の中学時代は、神を描く事と闇の中で生きる事しか、ありませんでした。要するに「人として生きること」に絶望的な状態でした。人として生きる勇気はひとかけらもありませんでした。理由は人がもつ独特の鈍感さで、犬は喋らないのに私を理解し人は喋るのに一つも私を理解しませんでした。犬は私が体調が悪いと臭いで理解し温めなめますが、人は言わないと全然気がつきませんでした。
だから、いかに人が言葉がある事で愚かで馬鹿で劣悪な存在かを成立したく、催眠術を流行らせて 騒ぎ立てパニックにしてめちゃくちゃ異質な存在でした。
自宅では教科書を読まないで毎晩聖書を読みました。天国はどうでもよく、モーゼの奇跡現象が不思議だったのです。

杖一本で海を裂くのです。凄い!もし、それができたなら地上は天国です。
ある意味神が主人公のSFファンタジーでした。仏様は海を裂くなんて芸当はできませんし、パンを増やす事もしませんでした。どんな本より面白かったのです。
そのファンタジーの謎は未解決ですが
そこらへんが宗教は小さな頃大変魅力的だったのだと思います。
それでも、無知であるという不安は本を読んでもなくなりませんでした。たまに
豆知識が増えて人に語るたびに賢いと誉められても、無知感はなくならない。
介護で人が動作や仕種で脳の部分活動状況を把握したり、言語で理解したりする仮説?を読んだりしても、どんどん無知感は増えました。

現象は理解するがなぜそうなるのかはいつまでも「理解できない」のです。
林檎が落下し落ちるという現象は理解できるが「なぜそうなるのか?がやっぱり理解できないように。

物理で唯一可能性を感じた理由は私達は星でできているという真実であり、人という存在が地球で単に特別変な生き物ではあるが、地球の一部星の一部である、という優しい物質の考え方にです。
ある意味自分の闇には、人に対する異質な孤独感があったので
その深い悩みに解決案として、良かったのだと思います。

人は毎日変化したバイオリズムで生きるのも、長年内心劣等感を感じました。それを数学はいとも簡単に人を優秀な存在にと私に理解を増やしました。数は作りかえる加工できるからです。
こうして小学生をやり直すように、理解力で人である存在の意味を考え方を変えていくような毎日です。ファイマンのとんでもない行動は、とても理解できます。私自身がとんでもない事が本音大好きだからです。それをストレートに行動すると、単に周囲の迷惑でしかないので、しないよう努めて努力していますが、たまに実験すると、とんでもなく「楽しい」のです。
そういった意味では種明かしはある事しかしませんし、仮説が本当か?という確認行動でしかありません。
無知感をなくしたくて始まった読書ですが、ますます劣等感を増やすという結果になりますが、得る事も沢山あります。

それは「神が存在する事を確信をもてないでも良い」 という結論?をもっても良いという事です。
ここでいう意味は、
勿論、私にとっては漠然とした解のままでよい自由です。神がいないという絶望でもなく存在するという確信でもないという自由を得る勇気です。この曖昧な結論を受け入れる事は今の私には重要な考え方の一つでも、あります。完全に矛盾した二つの世界観を成立させるには極論では無理なのだという耐性思考です。
疑うというのは理解する為の勇気ある行動であり、なんら罪ではないという誠実さのある認識方法であります。
そういった意味で不完全であって良いという考え方です。

これは大胆な考え方でした。。
そういいながら、やはり必死に取り組むファイマンの物理に対する挑戦が見えるのです。
小さな頃もし物理学者にあっていたら…私の世界観は相当違っていたかもしれません。たまたまSFを読んで数学的理解はできていなかったものの「Sense」だけは理解していたのが幸運だったという事でしょうか?

物理の本を読むたびに「原罪を赦されていく情動感」を感じるのはなぜでしょうか? そして「君はまだ全然思考できていない」という警告を言われるような…それを実感しながら読んだ一冊でした。

ユングもファイマンも現象に対して懐疑的である部分では同じです。

多面的であるというのには、多面要素の尺度を増やすしかありません。その為に謎の為に、また本を読んでいきたいと思います。