20120327久しぶりの晴れ

今日は病院へ行く日 銀行に行く日

以前あった出来事についての疑問がとけた。

多忙→時間にゆとりがない→精神的にゆとりがない→思考ができない→脳が停止状態になる→習慣的なものに価値を見いだす、それ以外の他者や違う個性に違和感を覚える→人を差別する→差別した人に怒りをぶつける→
言われた人はびっくりする→自分に問題点を考えるが、元から問題点はない→一方的な相手の差別に怒りが出る→怒りは社会的弱者に向かう
ここらへんで解るのは差別的怒りには問題点の内容はないという事だ。
単なる時間的ゆとりがないストレスからで個人に対しての意味づけは実際は皆無である。せいぜい、単なるレッテルをはった単純な偏見でしかない。
となると、馬鹿にしやすい人は暮らしにも気持ちにもゆとりがないという事らしい。
人を馬鹿にしてしまうほど、可哀相な精神状態で毎日を暮らしている状態だ。

となると原因は、個人には皆無であり些細なる事なのに、影響は他者に広がっていく。
まあ、それを真に受けて気にするのも変な話だが、人間とは繰り返し言われるたびに錯覚しはじめる厄介な性質をもっている。

冷静に考えると、差別しなくてもいい内容まで単なるストレスで大袈裟に騒ぎ立てる側に問題点が沢山ある場合は、やはり問題行動をする人間にゆとりを取り戻すしかない。

この場合は、差別の中に怒り以外に逆にえこひいきも含めて、差別だと思う。

こう考えると、差別しないという行動は
結構知性を必要とするとつくづく思う。
まとめ
人を馬鹿にする人は多忙な可哀相な人だ
言われた人は気にする必要性はない。

差別しないという行動は、実は結構難しい。

気楽に馬鹿にする人は実は言葉の意味をなんにも考えてないで喋っている。

単なるストレス行動である。

こう考えると
ゆとり教育とは
虐め撲滅の為の 前向きな対策だったのだなぁ。。

そういえば、橋元氏は留年制度をもうけたいらしいが、確かに考えと理屈はあっているけど…それで国の将来財産になる子供達が留年制度の為に、差別をうけた場合はどうなるのだろうか? 例えばものすごく天才的に数学ができて他の教科が悪い場合だったら、留年するだろう。余計にややこしい事になるのではないのかなぁ?
留年天才が生まれていく。。しかも考えを変えたら勉強したければ、ずっと留年したらいいという事も。。あるような…?テストは白紙にすればいいだけだし。
学習能力があるのとと社会的能力があるはまるっきり別の能力だし。

難しいねぇ。。

一年留年したほうがカッコイイとかになったら、どうするのかなぁ?エリートでは考えつかないことをするのが子供達だ。
それが…いいのかもしれない。