見良いという言葉

昔、舅の介護に夢中だった頃
とても感動した言葉があった。
「家族が仲が良いのは見良いいい」
とても嬉しい言葉だった
見良いってどういう意味?と改めて聞いた。
見て綺麗という意味と説明された。
…そんな事は考えてなかったからとても驚いた。 普通の事をしていた、私は老人に昔から愛された、だから老人に対して悪いimageはなかったから。実際に改めて本で勉強するホスピタリティの本には 考えてみたら、それが当たり前ではないだろうか?もしかしたら現代は寂しい時代になって、当たり前が当たり前じゃなくなったのでは?と…。
そうした時代に合わせてホスピタリティは行動を変えていかなくてはいけない。
街に徘徊した老人を保護した場合は自宅を知っていても警察に連絡を入れたほうが、確実だったりするのも老人保護が老人拉致と間違えられない為にだったり、実はその誤解話を聞いた時は拉致と間違えられるなんて…信じられない事だったり考えてもいなかった。現代は良心だけで行動し、勘違いされるぐらいに親切は沢山の誤解を受ける寂しい時代になってしまった。。

私の熱心な介護を当たり前な考えを信じられない知人は、やはりいて…必死に私の欲を探して疑い必死になった人がいた。何を見つけたら、納得したのだろうか?いまだに理解できなかった。なぜかその人は、最後まで納得いかないようだった、知人は見えるモノだけを信じる人だった。私のただ宗教的な意味で始めた奉仕で宗教的には、当たり前の最低限度の愛というlevelでしかなく、それは出来ないと神を裏切る行動でもあった。神を裏切る行為は、絶対にしてはいけないので、人を裏切るより罪は重い。仏教と違いキリスト教では、神は日常いつも自分のそばにいて見守っている事を感覚的に相手は全然理解できなく…結局理解されずに寂しく…残念で仕方なく距離をおく事にした。これもまた現実なんだけど。宗教感は説明が難しい、私はクリスチャンではないが、普通にそうした感覚がいつもある。
多分その人には矛盾して見えるのだろう。
見えない事にお金を出す人は沢山いない。。そう言った若い女性がいた。
見えない修行をする私の考え方は、矛盾ばかりだったのだろう。綺麗事だ現実は厳しい、考えが甘いと言われたが、ほとんど理解できなかった。私はひたすら修行を続ける。天国にいきたいとかではなく、神との約束を裏切りたくなかったからだ。こうした感覚は日常に持たない人には、全然解らないだろう。
そして寂しい話をしたがるのは日本人が実は平均的にネガティブな人種だからで、これは仕方ないのだが…。
私自身もその距離を理解し、私の正しいをしていく。それは生きる意味で一番大切な事だから、
時代になんとか合わせながら、上手にホスピタリティを理解し行動し努力していきたい。
人には理解されない時でも…。それはそれでいい。
お客様にありがとうと言われるたびに、なんとか役に立ったと…良かったと思う。
良かったを増やしたい。
良かったが増えた理由は 神が私を愛してくださったからだ。