命 魂 意識

人間が生きていて、死の状態になると「奇妙な静止感」が襲う

ある物体が動いていて、突然静止すると
死を感じない。

思うのは「生」というものは、単なる先入観ではないかと思うこと。実はある生きてるという感覚は、そう簡単に解るわけではないのでは?と思う。時折動物はなんとなく言いたい事があるように見えたり 日常の空が、日々生きていて異様な違いが漠然と肌に感じたりする。うまく表現できないが、こう、ふと目をとめた空間が実は昨日と全然違うような漠然とした変化を感じる。
フッと日常のフィールドが変化したような…。時々高速の何かが走っていったような…一瞬が、音も形もなく存在する何か。ある科学者が人生の経験や写真やあらゆるデータをインプットしたらコピーとして永遠にいきれるという実験は実は 完璧まではいかないが、人工知能としてはもう成立できる時代に入ったような気がしている。
それぐらい錯覚と認知能力さえ納得させる事ができればと思う。人に与えられた想像力と妄想という長所と安易な誤解という欠点さえあればの条件で。

静止感を感じるのは浅い部分で物体も魂があると古くから日本人は考えてきた。
それは寡黙な自然環境や生き物達などの協力によって、得た経験と歴史だけど私はそういう意味ではなく私達もたまたま動く物体でもう一方で静止感がある物体だったというのに過ぎないだけで。
どこからが生でどこまでが死であるか?というテーマは、意外に難しい気がする。星や月を見ながら 複雑な生き物であり
意外に人間は欠点だらけで日常で見て発見できる能力は狭いかもしれない。
例えば耳の後ろに手を当ててパラボラのようにすると聞こえる音は通常の音意外にも集められるように、まだ聴覚は鈍い訳ではないが、私の年齢になると高い音は拾えなくなる。
高い音域は感情では「明るい」というImageを与える。(個人差があるが)こんな単純な事でも人は影響があるように、普通?とは(正常範囲内)とても狭い人が理解できる限界の単なる先入観でしかない中で生きてるのだなぁと、つくづく思う。
大人になるという事は明るい音域を聞こえなくなる身体になり低い音域に理解が深まるように、身体が変化する事で理解は変わってくるという事だ。そこを意識して考えていきたい。自分しか解らない事、他者しか解らない事は沢山ある。

何が言いたいかというと、生死感とは単なる現象であり本来は、大きなエネルギー体としては、何にも根本的には変化がないのかもしれないと…時々思う。私達が知りえないだけの話で。何かが何かに変化し何かがなくなり何かが生きてるだけで、あるBalanceのなかで変化していながらある意味なんにも変わらないみたいな…恐竜が絶滅した分他の生き物が増えたりしているだけで
…生命エネルギーの量はいつも一定だったりするのかも。
解らない未知の次元の壁の先に、その本質があるのかなぁ。 という妄想がいつもあります。
それだと、一つ私の中で成立する事があるからかもしれません。ちょっと変な話ですが、それだとモーゼの奇跡が理解できる気がします。
人は、もっと沢山いろいろな能力を昔よりは失ったのかもしれませんし潜在意識で封印しているのかもしれないですね。
進化という言葉は誤解が沢山でると思います。

私は限られたパイの中で、奇跡的に生まれてきた命の一つでしかない。そして星と私が同じなら、山も海も理解出来たり山や海がある日動いたりするのがわかっても、全然変な話じゃないよね。問題は違う存在を理解できるかってことだと思う。究極は、自分が生きてるって事は死が理解できないという事だし。
本当は宇宙的な尺度では生死なんて、本質的には、なんにもないんじゃないかと思ったりする。
人は生存本能で死には鈍いから、死んでいるかに見えるようなものには、理解がなかなか進まないだけで。
老化を悪くいう人がいるが、老化の代償に人生経験が沢山ある事を忘れてはいけないといつも思う。
若いと良いと、人は言うが本質的に何が良いかなんて実際は適当で曖昧なものだ。好き嫌いとかも、人間は環境や生活が変わればコロコロ変わるものだ。
でも、自分が選んだとてもものすごくコアな部分での価値観は、そう簡単には変わらないと思う。
三歳の私は絵を選んだ。三歳の私は本を選んだ、童話を無条件に。
そこは大人になってもきっと変わらないのだ。
成功しようが失敗しようが、そんなのはどうでもいい事だし
そうでしか生きていけない、生き物なんだと思う。